当山の開基は、今から一千百余年前の平安時代(八〇八)にさかのぼります。
十五歳の慈覚大師・円仁(後の天台座主第三祖)が、師の広智阿闍梨に伴われて、
故郷の下野国(今の栃木県)から比叡山の伝教大師・最澄のもとへ向かう途中、目黒の地に立ち寄りました。
その夜の夢中、面色青黒く、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持ち、
とても恐ろしい形相をした神人が枕の上に立ち現れて『我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思うなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん』
と告げ、夢覚めた後その尊容を黙想し自ら、像を彫刻して安置したのに創まります。
(ご尊像は秘仏として十二年に一度、酉年にご開帳されます)
その後、大師は唐(今の中国)の長安にある青竜寺の不動明王を拝し、先の神人がこの明王であると分かり、帰朝して堂宇を建立します。
棟札に『大聖不動明王心身安養咒願成就瀧泉長久』と認め、この「瀧泉」をもって寺号と成し、山号は清和の御代に「泰叡」の勅額を賜り、泰叡山と称しました。
関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて日本三大不動の一つに上げられます。
また、堂宇建立の敷地を定めるに当たり、大師が所持の法具「独鈷」を投じた浄地より湧出した「独鈷の瀧」の流れは、数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることなく、不動行者の洗心浄魂の場として、今日に至るまで滔々と漲り落ちています。
江戸時代には、徳川三代将軍家光がこの地で鷹狩りををした際、その愛鷹が行方知れずになり自ら不動尊の前に額ずき祈願を籠めました。すると、忽ち鷹が本堂前の松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたので家光公はその威力を尊信し、諸堂末寺等併せて五十三棟に及ぶ大伽藍の復興を成し遂げました。
その伽藍は『目黒御殿』と称されるほど華麗を極めました。
(広重の「江戸名所図会」に詳しい)
かくして五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつとして江戸城守護、江戸城五方の方難除け、江戸より発する五街道の守護に当てられ、
江戸随一の名所となりました。
明治時代になると西郷隆盛や東郷元帥等が篤い信仰を寄せられ、祈願に訪れております。
※境内裏山一帯は『目黒不動遺跡』として縄文・弥生時代の住居跡、土器等が、発見されています。
さつまいもの栽培を広めた食料の恩人、青木昆陽先生は蘭学者・文化人としても日本社会に貢献し、目黒の土地を愛して、自ら『甘藷先生墓』と書きました。
そのお墓が今は国の史跡となっております。